【結局長文】徒然なるまま日記 『映画「不都合な真実」に於ける「懐疑主義」』編 [学問]
映画「不都合な真実」を観て、ゴア氏が言う『懐疑主義者』と言う言葉が気になった(幾度か出てきた言葉なので字幕を観つつ聞いていたら「Skeptics」と言っていたので間違っていない筈)。
この映画は「道義的な意味合い」に於いては非常に有用であると考え、賛同すれども否定はしない。CO2以外の問題でも、解消すべき人為的災害(所謂「公害」の類です)がある事は事実ですので、過去対処してきた(問題を認識し、解決の必要性を感じた)のと同様に今後も対応していかなければならないのは自明と考える訳です。
さて、枕詞が長くなりましたが『懐疑主義』ってなんでしょう?厳密な意味があまり知られていないような気がします(と言う私がそうでしたので)
もう一度だけ話を逸らしますが「ジェンダー・フリー」と言う言葉が巷に溢れた事は記憶に新しいと思います。この言葉も拡大解釈の後「女性差別問題」で多用され、本当にGenderFreeを唱える方々に多大な迷惑を与えた事を忘れてはいけません。
話し戻します。
「懐疑主義」は、字面から「何でも疑ってかかる、猜疑的な考え方」のように恣意的解釈がなされているようですが(と、被害妄想に罹っているのは私だけ?(苦笑)、本意は「独断主義に対するアンチ」というものです。
「独断主義」とは「これは誰がなんと言おうと、こうなのだ!」のように、根拠や証明の必要無く「断定をする」考え方。「躾」など、時には有用とも思いますが、使用者の都合のいい時にだけ使われると厄介な代物です。
これに対して「普遍性」や「客観性」を有する「根拠ある説明を求める」のが『懐疑主義』といえましょう。
科学とは総じて「懐疑主義的側面」を常に持ち続ける学問である事は、素人の私が言うまでもありません。
この映画は倫理的(道義的)側面も持ち合わせているので扱いが厄介なのですが、ゴア氏の言う「懐疑主義者」も多くは科学者のようです。
【以下、部分ネタバレ】
冒頭でも「温暖化は過去にも周期的に起きている。今の温暖化だけを特別に考える必要はない…」と言う、ゴア氏の言う「一部の懐疑主義者」の意見にも「過去参照(一定の普遍性)」「データー参照(客観性)」と言う科学的視点を見て取れます。
と同時に、CO2増加傾向をサンプリングし続けたゴア氏の先生なども科学者だったりします。
ここで困りました。
「懐疑主義」の懐疑的対象は「神秘主義」や「妄信」に対して向けられるべきなのかな?と考えていたところに「科学v.s.科学」の懐疑論争となってしまった訳です。
当然の如く、現代で「科学は万能」と言い切る科学者など居やしません(悪意ではなく、「まだ解明中」と言う意味です)。
で、仮説として分かった事は…
・科学者は所属する(資金を提供してくれる)所に有利な「考察」を提示する
と言うこと。
批判を浴びまくるのも嫌なので^^;)もちょっと説明。
色々なコメントや、指摘、またそれを切っ掛けに「科学者の姿勢」と言うものを、「科学」と言う知識と共に収集中な私なのですが、そのなかで解った事。
・科学者は真理の追究の為に設備や備品類を揃える為にお金が必要
・そのために論文には「結論」と共に、研究の重要さをアピールする「考察」で時には「過度な煽り」を行う事がある(「過度」には個人差あり)
と言うこと。
科学者は「結論」を捏造するような事はしません。同様の研究が世界中で行われている訳ですから、捏造のしようもありません(したら研究費どころか、科学者としては失業してしまいます)。
もう一度書きますが、その「考察」が、職業科学者にとっては大切な「鍵」になるのです。
長くなったので仮説
「科学v.s.科学」懐疑論争の論点は、実は科学的なところではない
と言うこと。
「結果を踏まえて考えるに、もっと研究を進めればこうなるかもしれません」と言う「考察」は、当然ながら科学者毎に異なります。
ここは批難覚悟で言うと、
「考察」とは「スポンサー」の意向に沿うような形で変化する
と言っても過言ではないとは考えられないでしょうか?
救いは「いかれた考察を求める(マッドサイエンティストを求める)スポンサーが、今のところ居ない」と言う、一定の倫理(皮肉なのは、科学を制限しているのが価値と言う「別の次元の力」と言う事)が働いているところでしょうか。
最後に:
自己弁護ではありませんが、この文章は科学者批難を目的とはしていません。
自分にとって都合の良い考察を言っている科学者(及び見解)を重用する為政者への問題提議なのです。
「不都合な真実」とは言い得て妙、ゴア氏が要所要所で「ポリティカルな問題」と言っていますが、科学が色んなことを解明しても、「客観性」とは別のレイヤーにある「価値観」と言うもので
・誰にとって、何が、どれくらい価値がある
か?で、人智によって解き明かされた科学的事実も「為政者の道具」として良い様に使われてしまうのだなぁ…と、科学者も上に行けば行くほど別の問題と戦わなければいけない大変さを思い知ったりするのでした。
日本復興計画! [学問]
その筋では有名な「ひろゆき」こと西村博之氏の「オープンSNS」になかなか面白い事が書いてあった。
単的に言えば「日本経済が良くなっても、日本は豊かにならない」という物である。
http://www.asks.jp/users/hiro/17641.html
日本国民って、政府や大企業のトップから軽視されている事に少しは気がつくべきだと思う。(別に左翼的な事を言いたい訳では無いのですが)
政府の論調は、昔からの「家内制手工業」的な感覚を強調しているような気がする。
企業の仕組みがそうであれば
企業が儲かる→働いている人がお金持ちになる→お金を使う→市場の流通が活発になる→その他の企業も儲かる…経済発展
という論法は「ない」と言えなくも無い。
が
企業が儲かる→株価が上がる→株主が利益を得る
という、上述の西村氏の論法の方が、現実だったりする(さらには日本株式市場で、株の売買の半数を外資系が行っている…と言うところまで言及)
これまた簡単に言えば「市場経済」と言うやつである。また、米帝(攻・機かっ!?)のシステムである。
経済動向は株式市場の動向を見て判断される傾向が強まってきているのは周知の事。
上場企業は、株主の顔色を伺いつつ商売しなければいけない…本当なら、消費者の顔色を伺って欲しいのだが(IRにつぎ込む金があるなら、価格の方に反映させて欲しい)。
閑話休題
しかし、国民レベルの景気は上記の如く「株価(例えば225)が上がっても、最大でも半分しか反映しない」という『感覚』と『実体』の間で物凄いギャップがあったりする。
しかし、そこには触れない。いや、触れてもいけないし、気付かせてもいけないような感じ…
むしろ日本人の「耐ヘ難キヲ耐ヘ、忍ビ難キヲ忍ビ…」という美しさを強要し、誰かを儲けさせる事に必死になっているような気がする…ま、これも植民地支配の一形態なんでしょうか。
それもさて置き、上記リンク先では「ホワイトカラーエグゼンプション」まで絡めてあるから性質が悪いw
結局「働けど働けど、我が暮らし楽にならざる」を地で行く様相なのである。
日本って誰のための国なんでしょう?
西村博之氏の意見に「激しく同意」したので、ここでも疑問の種をふり蒔くとしましょうか…
来年こそは良い年になりますように(-人-)
徒然なるまま日記 『数学的マジック 回答1』編 [学問]
はい、では「その1」回答編(簡単だったね)
おさらいとして、もう一度問題を…
【↓ここから】
ここに整数「1~15」からなる4つの『数字のグループ』を挙げます。
1.まず、頭の中で「1~15」の内、ひとつの数字を決めてください
2.次に4つのグループを出しますので、どのグループに「頭の中で決めた数字」があるか?全て答えてください。(例えば「A、B」とか「A」とか「B、D」とか)
では行きます。
A: 1、3、5、7、9、11、13、15
B: 2、3、6、7、10、11、14、15
C: 4、5、6、7、12、13、14、15
D: 8、9、10、11、12、13、14、15
【↑ここまで】
単純なトリック…と言うか規則です。『2進法』でグループ分けされています。
↓これ(15が切れちゃった^^;)

で、グレーの部分を縦でグループ分けすれば良いだけの事(問題では「Aが1、Bが2、Cが4、Dが8」です)。
計算は簡単。
「ある」と言われたグループの10進法の数字を足すだけ(「AとD」なら「8+1=9」となる…表を見るまでもなく、速攻で答えられる)。
ね?簡単でしょ??これは簡単なんです。
ではパート2(一回だけ嘘つける)は?と言うと…これはちょっと難癖があります。
ヒントは「チェックディジット風」と言った感じで…
こっちは答え教えないよん!
徒然なるまま日記 『数学的マジック』編 パート2 [学問]
昨日のマジックはタネが簡単過ぎたのか?「コメントなんぞ残すかいな!」と言う事か?何もレス付かなかったので、更に一歩進んで行きましょう
基本形は昨日と一緒。しかし、4つのグループから選ぶのではなく、今度は7つ。
ただし、今回は『一回だけ嘘をついて良い』と言うもの。
例えば「A、B、C、D」にある場合「A、B、Cにしかない」とか「A、B、C、Eにある」とか、一回だけ嘘をついて良いというもの。
では行きます。
Q:頭の中で「1~15」の整数の内、ひとつを思い浮かべてください。
下のA~Gのグループの中で、「思い浮かべた数字」が入っているものを、提示してください。
ただし、今回は『一回だけ』嘘をついて構いません。
思った数字が入っていないのに「ある」とグループを提示したり、入っているのに、そのグループを提示しなかったりして良いと言う訳です。(一回だけよ!)
ではどうぞ
A: 8、9、10、11、12、13、14、15
B: 4、5、6、7、12、13、14、15
C: 2、3、6、7、10、11、14、15
D: 1、3、5、7、9、11、13、15
E: 1、3、4、6、8、10、13、15
F: 1、2、5、6、8、11、12、15
G: 2、3、4、5、8、9、14、15
徒然なるまま日記 『数学的マジック』編 [学問]
教育つながりで…
「数学マジック」をひとつ紹介
ここに整数「1~15」からなる4つの『数字のグループ』を挙げます。
1.まず、頭の中で「1~15」の内、ひとつの数字を決めてください
2.次に4つのグループを出しますので、どのグループに「頭の中で決めた数字」があるか?全て答えてください。(例えば「A、B」とか「A」とか「B、D」とか)
では行きます。
A: 1、3、5、7、9、11、13、15
B: 2、3、6、7、10、11、14、15
C: 4、5、6、7、12、13、14、15
D: 8、9、10、11、12、13、14、15
…
出ましたでしょうか?
このマジックのタネを知らないを知らない人は、コメントの方に、当てはまる「A~D」の全てを書いて置いてください。
当てて置きます(って言いますか、この程度ならA~Dを比較していればすぐわかっちゃうんで、「即回答(出来るのがこのマジックのポイントなので…)」の威力が殆ど無くなっちゃうんですけど(苦笑)
知っている人の為に、次は、もう一段階高い数学マジックを用意していますので、お楽しみに(その2つが終わった段階で「タネ明し」します)
では
法整備の難しさ [学問]
施行時から諸手を挙げて喜んで良いものか?と思っていたが…
飲酒運転に関する「厳罰化」。
日本の刑法と言う物は「重い罪を適応」と言うもの、複数の刑法に抵触する犯罪が犯された場合、基本的に重い方の罰を受けることになる(状況によって、例外的に、加算ではなく+α刑罰もあるが)。
米国のように累積的であれば、それぞれの刑事罰(分かりやすいのが懲役)を加算して「懲役300年」とか、殆ど「無期懲役」と言っても良いものになる。
で、何が言いたいか?
飲酒運転の刑罰を重くしたが故に、それをベースとして起こりうる別の犯罪とのアンバランスを生じてしまったのではないか?
法整備に当たっては、改正するに当たり、懸念される様々な犯罪との関連性を同時に整備する必要があるのでは無いでしょうか?(なんかチクチ風で嫌な文体だな)
一部の重犯罪に対しては、刑事罰を累積するような動きが出来ない物か?(出来ないから、色々策を練って、より重い犯罪を適応させようとしているのであろうが、それでは原告側に違法性が問われてしまうと言う矛盾もあるからねぇ)
法律の勉強もしなくちゃいけなくなった(苦笑)
シンプルであればあるほど、被害者も救われるし、加害者も罰を当然として受ける気になれるのでしょうが、シンプルだと「揉めない」から弁護士の食い扶持が減るのかな?と下衆の勘繰りをして見たりします。
敢えて今更AyurVeda通信003 [学問]
最近、過激な政治批判や、矛盾にぶつくさ文句言いまくっていたので、ちょっと冷静になるためにも『AyurVeda通信』再開です。
Vedaという、日本語訳では「知識、学問」についてですが、これには約40の側面がある事は既に述べました。
では、「何故そんなに多くなっちゃうの?」という疑問から。
まず排除していただきたい概念は「データや書物」の存在です。
6000年近い昔には、そんな便利なツールはありませんでした。代々伝えていく手段は専ら「口伝」です。
といえば、もう既にお分かりの通り、「口伝で伝えられる量には限りがある」ということが、まず一つの原因と考えられます。
確かに簡単なものであれば40個くらいは一人で伝えられるかもしれません。
が、40のVedaそれぞれが、一つ一つ果てしなく膨大な知識の塊の為、『正しく伝える為』には一つのVedaを一つの家系で担って(口伝して)いかなければ、途中で間違ったものになってしまうのです。
どうして間違えるか?
それは「概念」というものではなく「音(正確にはギャップ)」で伝えられていた為に(言葉ではあるんですが…)、イントネーションやギャップ一つで誤った知識になってしまう恐れがあるのです。
現代に置き換えてみても明らかなように、同じ言葉を発しても受け止める人が違えば全く異なった意味になってしまう…(Vedaの口伝に於いては、そんな程度の違いではないのですが)と言えば、少しは理解しやすいでしょう。
話を変えて「では、その知識を全て知っている人は居ないのか?」と考える方もいらっしゃるでしょうが、実はいらっしゃいます。
ただし、人間の考える範囲では収まりきらない程の「超人的(恐らく本人には、その意識は無い)」な人物が、時に産まれます。
「産まれる」と言うことに焦点を当てたいのですが、その方は「人であって人で無い」と言うちょっと常識では理解できない存在です。
私は、語弊覚悟で「人の形をした『知識の編纂』をするためのエネルギー体」と考えています。だから普通の人間にとっては「超人」と映るわけです。
何でそんなことを突然言い出したかと言うと、そのような方は数百年に一度しか現れないからなんです。(怪しげな文章になってきましたが、変な思想や宗教じゃ無いのでお付き合い頂ければ幸いです)
自然の力はそんなところにまで気を配ってくれており、知識が分散し、それぞれが誤った方向に行くと、一つ一つを正しく直し、分散した知識を集めてもう一度正しきVedaを人間に与える為に、人の形をした知識者をこの世に産み出してくれる訳です。
人間が作った「制度」や「考え方」とは比べ物にならないくらい昔から(認識してなくとも現在も)連綿と流れている)ある「『真理』への道(ちょっとかたいかな…噛み砕けば「正しい生き方」位が、まずは良いかも知れない)」を我々は知る機会に恵まれるようになる訳です。
それは『気付き』であり、学ぶものではありませんし、「どうしても学びたい」と考えても、社会生活の片手間に学べるような代物ではありません(例えVedaの一側面だけを取ったとしても…)。
ただ、『気付き』によって得られる物は、計り知れない程、膨大な量の知識です。だから私たちは、目の前を通過する「何か」に気が付ける様に、心の準備をしておけば良い訳です。
詳しく話し続けると、またまた長文(これももう既に(苦笑)になってしまうので、次回辺りからは、もうそろそろAyurVedaに言及していきたいと思います。
余談:インドに伝わる古典文学に「バガヴァット・ギーター」と言う作品があります。前にも書いたかもしれませんが、この作品を「心の目を見開いて、気付きを得られる準備が出来た状態」で読むと、単なる「膨大な叙事詩」では無く、そこに詰め込まれた本来の意味に気が付けるかもしれません。
手元に持っておいて、いつでも読めるようにしておいた方が良いかも知れませんね。で、読むたびに新しい発見があれば、「気付きの兆候が芽吹き始めている」証拠では無いでしょうか?
お勧めの注釈付きの本を載せて置きます。
『ゆとり教育』の真実?! [学問]
四則計算すら儘ならなくなっている、問題の「ゆとり教育の後遺症」。
これはテロです。w
ちょっと想像つかないと思いますので、順を追って話しましょう。
昔とある文献で1600~1800年頃の識字率の国際平均(歴史文献の残っている先進国のみ)を見たことがあります。(TVだったか?ソース提示できないのが残念)
奴隷政策や、植民地政策を行っていた国での識字率は、高くて20%、低いと5%程度だったそうです。
では、そのとき日本はどうだったか?
なんと70%超だったとの事。
確かに戦国時代が終わったばかりでは、学問が一部特権階級のためのものであった事は事実である。(逆に、当時はヨーロッパ諸国では大学と言う機関が出来ていたのは周知)
が、鎖国政策を取り、さらには「入り鉄砲に出おんな」と、江戸中期から末期にかけて、「戦乱の世」が実質無くなって以降、学問が栄えました。
まず寺子屋の台頭(って言うのか?)です。
小さい頃から、所謂「読み、書き、そろばん」が出来るようになるのが当然で、当時は文頭の如く70%を越える人々が読んだり書いたり出来たそうです。
実はこれは大した事で、「文字を読める事」とは「どうせ文字も読めないからコントロールは容易…」と言う「知識人による中央集権型国家」になる事を防げたからです。
ここいらで、もうそろそろ「テロ」と言い放った事が解り始めたかも知れませんが、もうちょい言わせてくださいな。
人間と言う動物が何故、他の動物と違って食物連鎖から逃れ、発展したか?
それは知識の向上と伝達(後世に残し、蓄積していく事)、つまりは文明を築いたからです。
知識を得る事により、まず基本的な自然現象を理解する事が出来ます。
それが、自然の力を応用する物に変化して行き「自然の力を最大限に効率良く利用していく」事につながり、繁栄して行きます。
長々なってますので途中はしょって…結局は「どうすれば国を繁栄させられるか?」と言う事に辿り着く訳です(はしょり過ぎw。「一人よりは「集団」の有用性を感じ、いずれ国家と言う形態をなし…」と付け加えておきましょう)
さて、では学問とはどういう位置づけでしょう?
それは「今までの人類の歴史を紐解く事が出来、同じ過ちを繰り返さず、更なる進化を遂げる」と言いたい所ですが、そこまで私達は進化していないようです。
なぜなら「戦争は憎しみしか生まない」事を知っていても、やめられない生き物だからです。
これは動物にも悖る行為で、絶滅するまでお互いに争わないのが自然の動物達で、それすら守れない「人間」は、一側面において「動物以下」です。
しかし、それを何とか抑止したり、鎮圧したのが広義の学問(倫理観も含むので)では無いでしょうか?
一番怖いのは「負の歴史を隠したり、消してしまう事」でしょう。
それは「過去の過ちを無かった事にする」という人類の退化だからです。
「ゆとり教育」とは、「知りたい欲求」を抑止する最悪な教育です。
誰でも一つ位あるでしょう、「ある事を人より良く知っていて褒められ、より知りたい!」という経験があれば、学習のポジティヴなサイクルに入り込めます。
が、逆もあり「何も知らないと馬鹿にされる→知ってる事が偉いのか?」と言うネガティブサイクル…『知る喜び』より『その場限りの享楽や、暴力で支配する事に快感を得る』事に重きを置いてしまうのです。
つまり、社会を担う世代がネガティブの塊だと、社会機構自体が低迷してしまう訳で、ボディーブローのようなテロ行為と言えると考える訳です。
「発展途上国」に対し「先進国」は武器や弾薬しか供給しない(しかもその先進国と言うのが、国連安全保障理事会の常任理事国5カ国だったりするから目もあてられない)…未だ一部ではそんな国際状況だったりします。
正義を大上段に振りかざすつもりはありませんので武力自体の否定はここでは敢えてしませんが、取り敢えず平和に生きていけるための優先順位をつければ
1.食料
2.病院
3.教育
4.自衛力
となり、武力は最後で良い筈なんです。
でも、発展途上国の国民は気がつかない。
なぜなら「教育」が著しく低下しているから…もしくは、意図的に教育が行き渡るのを抑制されているから。
悪い人たち(もしくは国)にとっては「知られない事」が一番重要です。
知識がつけば「いつか気付かれる」かもしれません、それを恐れているのです。(「平民は考えないで働け!」という貴族社会が、歴史上それを証明しています。また、武器弾薬は最高に高く売れる「商品」ですから、消費してくれないと困ったりするんです。)
故に、識字率や知識量の多い(高い)国に対しての「長い目で見た一番効果的な爆弾」は「引き継いできた知識の断絶」でしょう。
で、それが「ゆとり教育」です。
誰が始めたか分かりませんが、日本人の悪い部分で「すぐどちらかに寄る」傾向をまず直さないと、今後こういった「即時に分かる悪」でない攻撃に対応できません。
グローバルな社会になるのか?閉鎖的と指摘を受けようとも、やや村社会的な形態を取るのか?(私的には後者)国民が立っている土台を作る国に対しては毅然とした態度で居て欲しいもんです。
追記:
『悪意なき加害者』
所謂「プロ市民」や「工作員」と言われる人たちではなく、軽い気持ちで「煽って乗っかって楽しんじゃえー」的な発言や行動を起こす無知な人たちを指します。
無知である事を「悪」とするならば、彼らは「悪人」ですが、意図的に「無知」に誘導されていたら、どうでしょうか?
実際、「ゆとり教育」等の「知識を得る喜びの機会を失わせる」経験をしてしまったなら、それは「自発的」なものとは言えず、「受動的」もしくは「誘導的」とさえ言えるのではないでしょうか?
敢えて今更AyurVeda通信002 [学問]
はてさて、生きていると様々な事に出会いまして、なかなか腰を落ち着けることが出来ない(AyurVeda的に、こんな時間まで起きている事自体が間違い^^;)ので、だいぶ空いて第二弾。
そもそも勉強量が足らない!絶対的に足らない…と自覚しちゃったもんで、ちょいと落ち着いて、ゆっくり内容確認しながら進めて行きたいと思います。
基本は「指導者から正しく指導を受けること」であり、本を読んで理解しても、自己解釈と言うか、偏向解釈に陥る危険性が高いので、ひとつの事柄に対して色々な人の解釈を見ています。
Dr.トニー・ネイダー(Ph.D)の本を読んでいたら、昔は全く理解できず、今でも難攻不落の知識の集大成です。これはきちんと指導者の下で勉強しないと分からない…
そんな時、突如入り口を開いてくれたのが仮谷卓さんの著書「生き方の極意」でした。
私のような「理解のレベルが浅い人」に対しては、助け舟的存在の書でした。
Vedaの知識を原典から持ってきて、それを分かりやすく日本語で日本的に説明してくれている、良い本です。
で、読んでから、全く理解不能だった本を読み返してみるとあら不思議!
未だ理解には程遠いが、ところどころ「何を言っているのか?」が仮谷さんの説明のおかげで分かりかけてくる(雲間から光が差し込んでくるような感じ)。
はじめは「走り読み」、次に「熟読」、最後に「意味合いの掴めるところは体系化し、自分でも実際に手書き文字で書いてみる」…すると、相互の関係性が、絡んでいた糸が解けるように、きれいに整理整頓されてしまう…不思議な魅力を持った、素晴らしい本です。(Vedaとは何ぞや?とおっしゃる方が見ても、はじめはあまりピンと来ないと思いますが、何度も読むうちに、Vedaへの興味が湧いてきて、そこに集約された膨大な知識の片鱗に触れる事で「気付き」が起こり、より深く知りたくなってきます)
未だ「生き方の極意」を本当の意味で読めていないという違和感がありますので、今後も重ねて何度でも読んで行きたい一冊です。
さてと、前置きが長くなりすぎました^^;)(でも、あまりに良い本だったので)
AyurVedaというもの自体、単品で扱うことが出来ない事も理解して頂きたかったのです。
Vedaの様々な側面を理解する事が、AyurVedaを学ぶ上で欠かせない事に、今更気が付いた訳です(これは正直笑えないorz。つまり現在持っている私の知識は不完全であることの証明にもなってしまうから)
と言った訳で、しばらくはAyurVedaというよりもVedaについての考察をメインにし、簡単健康法的なAyurVedaと言う「知識」の「Tips」的なものを少しづつ書いて行きたいと思います。
早く寝ないといけないので、今回は不充分…う~、燻ってる(苦笑)
師匠の言葉:
『暗闇に、正しい知識の灯りを灯しなさい』
無知は恐怖を生み、誤った知識は誤った結果しか生まない。
楽しく無邪気に生きるためには、「恐怖(無知により存在しているように感じるだけ)」が本当は存在していない事を知り、正しい知識(自然の法則)に基づいて居れば良いのです。
敢えて今更AyurVeda通信001 [学問]
ご無沙汰しています。「超越瞑想(TM)」で啓発中の一存在でございまする。
つーこって、とってもサットヴァな感じで、生きていることがとても幸せだったりします。
さておき
マハリシアーユルヴェーダの講義を受けた身としては、瞑想もさることながら、身体の根本からの輝きを取り戻せる日常生活の話をしていきたいと思います。
殆どの事が「気付き」によるものですので、分からない人には永久に分からない内容になる可能性があります。
あと、学問の性質上、全てはお伝えする事は難しい(と言うか、できません)です。
でも興味があったら読んでみて下さいね。
アーユルベーダと言えば、オイルマッサージとかシロダーラ(額にオイルを垂らす治療)とか今ではいろいろありますが、根本の概念は全部一緒です。
つまり「…とは違う」と言ったものは無いわけです。
物語が伝えられていくうちに形を変えていくのと同様に、学問もさまざまな解釈から意見が分かれて行き、「**式アーユルベーダ」とか言われる様になっちゃった訳です。
最も分かりやすい誤解例は「ヨガ」
そもそも、この言葉自体が持つ意味を軽視しがちな気がいたします。
「**ヨガ」と言う「**」が色々ありますが、Yogaという言葉自体が「統合」と言う意味を持っているのに、何で多岐に渡ってしまったんでしょう?
それに、ある特定の複雑怪奇なポーズ(それぞれに意味はあるのですが…)から 、フィットネスな感じのものまで、動作自体を意味する言葉になっている(「ヨガマット」と言うような商品の存在自体が『ヨガとは運動である』と連想させますね)と言った誤解(?)も生じています。
Yogaとは「魂と肉体の統一(統合)自体」「その方法論」「その意識」の全てにわたる様な、包括的な意味があるので(運動自体は別の呼称で呼ばれます)「ヨガ≒体操」でもあるし、「ヨガ≒瞑想」であり、それらの方法を統合して「Yoga」と言うべきでしょう。
閑話休題
「じゃアーユルヴェーダって何なの?」から話していきましょう。(巷に本もいっぱいあるので、知っている知識も多いかと思いますが、最も正しいと思われる形としてマハリシアーユルヴェーダを元に進めていきます)
『Ayur』とは『命、生命(アーユス)』、『Veda』とは『学問、知識』を意味し、あわせて『生命の学問(知識)』という意味です。
Vedaと称される知識はいくつかあり、占星(厳密には占いではないが)、建築にまつわるものなど、その学問体系は多方面にわたっています。
興味のある方なら、「トリ・ドーシャ」という言葉をご存知かもしれません。
「ヴァータ」「ピッタ」「カッファ」という三つの性質の事です。
「ヴァータ」は主に「風の質」と言われ、「ピッタ」は「火の質」、「カッファ」は「水の質」とそれぞれ言われています。
人間は生まれながらにしてそれらの性質を兼ね備えており、個人個人によってバランスが異なっています。
「ヴァータ」が強い人、「ピッタ」が強い人「カッファ」が強い人、またそれらの組み合わせで、例えば「ヴァータとピッタ」が強い人…等等居る訳です。
自分の持っている本来の性質と、現状の性質とのバランスが乱れることで、表面上の変化(いわゆる疾病)が現れてくると言うのが、かなり端折って書きましたが、基本的な考え方です。
マハリシのTM(超越瞑想)を行っている人であれば分かり易いと思いますが、根源で起きている事が表層に現れるまでにかなりの長い距離を必要とします(最も精妙なレベルから起こり、静寂のレベルの乱れとなり、五感で感じ取ることが出来るところまでかなりの時空的距離があるわけです)。
つまり、疾病として表面に現れるのは、はじめに起きたバランスの乱れから、相当な時間や距離が経っている…と理解すれば良いと思います。
「表面に現れないようにする事(簡単に言えば「予防」w)」がAyurVedaの本当の価値です。
表面に現れてしまった乱れを収めるのには「外部からのバランス取り」と「内部からの調和」が絶対的に必要になります。 (内部からの調和は瞑想によってもたらされるので、ひとまず置いておきます)
「外部からのバランス取り?」「どうやるの?」ってところが肝になりますが、AyurVedaのドクターは「脈診」によって「その人本来の性質」と「現在の性質」を見て、「どの質が」「どのように」「どこで」バランスを崩しているのか判断し、バランスを取り戻すための方法を、生活全体から指導していきます。
大事なのは、生きている状態全ての『行動(肉体と魂の)』に、「バランスを崩したりもどしたりする素養がある」と言うことです。
そのため、具現化してしまった疾病に対しては、長期にわたる(とは言え、最低で2週間)生活全体の指導になってしまいます。AyurVedaのドクターは、具現化しない時点で、パルスの乱れからバランスの乱れを見つけ、それに対処するための生活指導を行います。
「生活指導って言ってるけど、何か薬を使ったりしないの?」と言う疑問が生まれます。
ご尤もな疑問だと思います。
まず、AyurVedaでは人工物は使用しません。薬と言っても、厳選されたハーブから作られたもの(最も自然に近いもの…といいますか、自然物)を使い、「ハーブで治療する」と言うより、生活全体を改善して、その補助(時には、具現化してしまった病状が酷く、まず改善のスタートラインに立たせる為に必要になることもありますが…)として経口でハーブの薬を使用する位です。
あまり好ましくないのは重々承知の上で、西洋医学との比較をすれば、西洋医学は主に「対症療法」が用いられます。
痛いなら鎮痛剤を、感染症には抗生物質を与えるように、悪さしている物に対してターゲットを絞り、狙い撃ちしていく訳です。
もちろんその病気の原因も探し、そこを潰す事によって根治させようと努力もしますが、更に奥にもっと根本の原因が待っていたりする事も歴史的事実として重ねられてきました。
が、数百年にわたる研究の下で得られた現状は「『まだ見えてこない原因』との戦いの最中」と言えなくも無いでしょう。
元は薬自体は薬草などの自然物だったのですが、「効果を高めたり」、「薬草の持つ薬効成分の抽出が難しかったり」したため、人工的に同じ組成の物質を作り出して「同じ効果が出るならば、わざわざ自然の物を使う必要があるのか?」と『薬効成分至上主義』になって、「自然からの恩恵」と言う、証明が難しい効能(科学者は「正体がハッキリしない物は、存在しないと同意だ」と極論でバッサリ切り捨ててしまう方も少なからずいらっしゃる様で…)が失われてしまいます。
一定期間こうなってしまうと、始まりが何だったのかすら分からなくなり、このような「正しい知識を失った状態」になり、自然の法則が見えてこなくなります。
話を戻して、つまり人間は口にするもの、活動(精神と肉体の)、更には、話す言葉、呼吸…生きている上で無意識に行っていること全てがバランスに影響を及ぼす事を知っておくべきでしょう。
長くなっちゃったので、今回はここまで。
(さわりにもならずに終わっちゃったー。Dr蓮村の「ファンタスティックアーユルヴェーダ」読まれると、書く事が無くなっちゃうので…でも読んでねw。分かりやすいし正しい知識満載なので)
わが師匠よりの言葉
「種を蒔けば、必ず実ります。しかし、正しい種を蒔けば甘い実を、誤った種を蒔けば苦い実を実らせます。どちらであれ、蒔いたあなたが全ての実を食べなければいけません。」
常に美味しい実(楽しい体験)を得ようとするなら、正しい知識に則った、正しい行動を取るように心がけましょう。
乱筆乱文、この場にて失礼させて頂きます。




作者: マハリシ・マヘーシュ ヨーギー


